人に馬鹿にされたなと感じたとき

自己肯定感の低い人の身の守り方(と私は思っている)

 


誹謗中傷を受けた人は、「なにくそ!」とならずに素直に凹んでしまう人が多数だと思う。特に自己肯定感の低い人。そういう人は同時に、他人からどう評価されているか気にしてしまう人だ。否定的なこと何度も反芻してしまい、心が弱っていってしまう。

自分に理不尽が降り掛かったときも同じだ。レイプだとか、いじめだとか。悪いことをすれば悪い報いがある、というバイアスがかかって(公正世界仮説という)、「自分がこんなひどい目にあったのは何か悪い原因が自分にあったからだ」と考えて自己肯定感を下げる要因になる。強烈な体験はフラッシュバックしやすいから、そのたびに心が弱っていく。

 


だけど、誹謗中傷や理不尽が他人に降り掛かったら如何思うだろうか。私達は、他人のそういうことについては素直に怒りを発揮しやすいのではないかと思う。創作のワンシーンでもあるだろう、自分に対しては外野からやいのやいの言われてもツーンと済ましているけど、母親や先生、恋人まで中傷されるとカッと怒りを露わにする…。

他人を制裁することは脳内麻薬を作り出すほどの快楽で、行き過ぎると制裁するために罰する対象を探してしまうほどだ。芸能人が不倫されたら被害者の人間を擁護すると同時に加害者を叩きまくるし、パワハラセクハラがあったらその加害者を容赦なく叩きまくる。

 


特に被害者が自分の「推し」だったら正義の制裁はさらに強まる。

 


「推し」の喜びは私達の喜び、「推し」の悲しみは私達の悲しみ…じゃあ「私達」への誹謗中傷は推しへのそれと同じと捉えてもいいのではないか。(あくまで自己満足の領域でだ。実際の推しには押し付けない。)うまく言えないけど、誹謗中傷されたその時だけ自分のアイデンティティを「推しのファン」にすり替えるのだ。

 


かなり失礼なやり口だし、イカれているから、「自分の誹謗中傷は推しへ誹謗中傷と同じ!」なんて声高らかに主張してはいけない。自分を慰めるためだから心の中でひっそりと行う。そしたら心が傷つきにくくなって、回復しやすくなるからその間に自己肯定感を育てればいい。

 


推しへの誹謗中傷には私達は素直に怒れる、暴れまわれる。ただ推しと自分の自他境界が曖昧になってしまう恐れもある。

例えば漫画のアニメ化がうまくいかないと、監督やスタッフを過剰に叩く人がいる。そういう人は、アイデンティティが「その漫画のファン」ですっかり凝り固まっていて、漫画の批判が自分に向いていると思ってしまうからなのだ。今までファンであることに誇りを持って生きていて、それによって悪口に心をおられずに自分を保ってきた。だから逆に誇りを折られると弱い、脆いのだ。