あざとい女子が苦手
私は女子だ。だからといってあざとい系女子に意地悪されたことはない。確かに好きぴに振り向いて貰うための可愛らしさもあるけど、むしろこういう子は好きぴだけじゃなく誰にでも可愛らしい。女子校に通ってた頃、あざとい女子はよくクッキーを焼いて学校に持ってきてみんなに振舞っていた。「あ、甘水ちゃんも食べて食べて!」と陰キャな私にもくれた。だからこういう女子はとても大好きだ。
問題は大学に入ってからだ。私の生活圏内に同い年の男子という存在が入り込んできた。大学生男子は本当に面倒くさくて嫌いだ。ダサい逆張りばかりする。
あざとい女子は大学にもいた。いつもニコニコしてとても交友関係が広くて、何より持っているバッグやら来ている服やらがめちゃめちゃ可愛い。いつも丁寧なメイクをして、髪の毛をトゥルントゥルンに整えていて本当に完璧な姿だった。だけど男子からの評判は良くない。誰かが彼女の話題を出すと、「ああ、あの人ね…笑」と鼻であしらう態度を示す。
「なんか俺、ああいうあざとい女子苦手なんだよね〜笑」
「周りに媚び売ってる感じが、ねぇ…」
知らねーよ、別にこの子はあんたの好みに寄せてあの姿になってるんじゃねーんだよ。可愛い自分でいるのが楽しいからだよ。誰かのためだとしても、てめえみたいな努力を浅はかだと笑う弱者男性じゃなくて頑張ってる努力を分かる強者男性に認めてもらうためだよ。それに愛想よくするのが媚びってなんだよ、偽善って言葉と同じくらい捻くれた意味だな。媚びでも何でも愛想いい方が良いに決まってるじゃん。
と私は思った。
そのくせ、そのあざとい女子、男子たちの間で「そんなに好きじゃない」くせに度々話題に上がっていた。ふーん、苦手なくせによく知ってるじゃん。それってただの酸っぱい葡萄じゃん。
「ああ、男の人って女の子の行動の一つ一つが自分たちのためとか思ってるんだ…気持ち悪いなあ…」とじわじわ男の人が苦手になっていった。それにメイクを頑張るようになったらナンパは増えたし男友達はストーカーになったし。
もし私がバブルの女だったら気にならなかったかもしれない。だって昔はデートは男が奢るのが当たり前って風潮だったから。金と引き換えにかわいい女を引き連れていた。でも今は割り勘だし結婚しても女も働く時代だ。何というか、割り勘思考のくせにまだ自分たちがとやかく言える側だとでも思ってるのかなって。
YouTubeで「好きぴに可愛いと思ってもらえるヘアアレンジ!」「好きぴをドキッとさせるお洋服!」なんてのが流れると、辛くなってしまう。頭の中で「俺そういうの好きじゃないし」と幻聴が聴こえてしまう。「可愛い、真似したい」と思っても、勘違い人間にとやかく言われたり付きまとわれたりされるのでは。やる前からそんなことを考える。聞かなければいいんだけど、今は心が弱ってて無視できない。勝手に連想して嫌な思い出がとめどなく溢れてしまう。
最善策はあざとい女子系のコンテンツを非表示にすることだった。心が弱くてごめんなさい。あざとい女子のことはすごい、他の奴らにどー思われようが好きな人が可愛いって言ってくれたらいい!って精神が強くないとできない。
後書き
私の大学にいたあざとい女子は3年次で成績1位でした。つよい(確信)これでもまだ男子たちこの子のこと馬鹿にするんですよ。見たことないのに「リスカしてる」とか…。往生際が悪すぎる。流石にこれが男子の全体だとは思わないけど。思い出すだけで精神を害する。
人に馬鹿にされたなと感じたとき
誹謗中傷を受けた人は、「なにくそ!」とならずに素直に凹んでしまう人が多数だと思う。特に自己肯定感の低い人。そういう人は同時に、他人からどう評価されているか気にしてしまう人だ。否定的なこと何度も反芻してしまい、心が弱っていってしまう。
自分に理不尽が降り掛かったときも同じだ。レイプだとか、いじめだとか。悪いことをすれば悪い報いがある、というバイアスがかかって(公正世界仮説という)、「自分がこんなひどい目にあったのは何か悪い原因が自分にあったからだ」と考えて自己肯定感を下げる要因になる。強烈な体験はフラッシュバックしやすいから、そのたびに心が弱っていく。
だけど、誹謗中傷や理不尽が他人に降り掛かったら如何思うだろうか。私達は、他人のそういうことについては素直に怒りを発揮しやすいのではないかと思う。創作のワンシーンでもあるだろう、自分に対しては外野からやいのやいの言われてもツーンと済ましているけど、母親や先生、恋人まで中傷されるとカッと怒りを露わにする…。
他人を制裁することは脳内麻薬を作り出すほどの快楽で、行き過ぎると制裁するために罰する対象を探してしまうほどだ。芸能人が不倫されたら被害者の人間を擁護すると同時に加害者を叩きまくるし、パワハラセクハラがあったらその加害者を容赦なく叩きまくる。
特に被害者が自分の「推し」だったら正義の制裁はさらに強まる。
「推し」の喜びは私達の喜び、「推し」の悲しみは私達の悲しみ…じゃあ「私達」への誹謗中傷は推しへのそれと同じと捉えてもいいのではないか。(あくまで自己満足の領域でだ。実際の推しには押し付けない。)うまく言えないけど、誹謗中傷されたその時だけ自分のアイデンティティを「推しのファン」にすり替えるのだ。
かなり失礼なやり口だし、イカれているから、「自分の誹謗中傷は推しへ誹謗中傷と同じ!」なんて声高らかに主張してはいけない。自分を慰めるためだから心の中でひっそりと行う。そしたら心が傷つきにくくなって、回復しやすくなるからその間に自己肯定感を育てればいい。
推しへの誹謗中傷には私達は素直に怒れる、暴れまわれる。ただ推しと自分の自他境界が曖昧になってしまう恐れもある。
例えば漫画のアニメ化がうまくいかないと、監督やスタッフを過剰に叩く人がいる。そういう人は、アイデンティティが「その漫画のファン」ですっかり凝り固まっていて、漫画の批判が自分に向いていると思ってしまうからなのだ。今までファンであることに誇りを持って生きていて、それによって悪口に心をおられずに自分を保ってきた。だから逆に誇りを折られると弱い、脆いのだ。
お焚き上げ
火にあまり触れない日常だけど、今回で少し怖さが和らいだ。火傷したけどあ、こんなものかと。小さい頃、誕生日のろうそくの火に触ったことを思い出した。燃えている間はずっとハラハラしてて、ゆらゆらと炎がゆらめいて、箱がちょっと燃えると水の上で勝手に動いてこっちに寄ったりして燃え移らないか怖かった。それに炎の外側は見えないから火が知らないうちに乗り移って火事にならないかハラハラした。昔の人が火の玉とか言っていた理由がなんか分かるような気がする。火はどこに行くか分からない、制御できない恐ろしさがある。
炎はピンク色の画用紙を侵食して灰色の欠片に変えていった。燃え始めと燃え終わりが一番高く炎が登った。揺らめいてるそれに本能的に惹かれた。ちゃんとお椀の中で燃え尽きるか心配だった。でも燃え終わったら、それを告げるように線香よりも太い煙がすーっとまっすぐに天井まで登っていった。今度やる時はガラス製の入れ物(ビーカーとか)やら灰皿に水を浮かべて、草の生えてないジメジメした地面のある公園でやろうと決めた。
形代はただの百均の画用紙なのに、燃えているときとても良い匂いがした。お香みたいな。燃え尽きるのが嫌で私を誘惑していたのだろうか。
銀河鉄道の夜 〜ジョバンニのカムパネルラへの依存〜
最近、「銀河鉄道の父」という映画の予告を見たので、この映画を思い出した。
杉井ギサブロー監督の、登場人物が擬人化している二足歩行の猫になっているアニメ映画。
青い猫がジョバンニ、赤い猫がカムパネルラ。
【ざっくりとしたあらすじ】
主人公ジョバンニは、学校ではいじめられ、仕事場からも孤立しており、お母さんは病気で、仲の良いカムパネルラとはあまり話さなくなっていた。それにいじめっ子のザネリたちがラッコの上着が来るよと囃し立てていて、さらに孤立感を覚えている。
星祭りを見ていた最中、逃げ出したくなったジョバンニは、町から遠く離れた森へ行き、そこで学校で話されていた天の川を見つける。天の川をぼーっと見ていると、列車がやってきた。乗り込んだジョバンニ、すると向かいにいつのまにかあのカムパネルラがいた。二人は列車の中で様々な乗客に出会いながら旅をしていく。
賛美歌が聞こえたり、十字のお墓のようなものがあったりすることから死後の世界に向かっていることがだんだんわかってくる。
【以下感想。腐女子なのでそれなりにフィルターがかかってます。】
ジョバンニてカムパネルラのことかなり好きだよなと思う。友達がいないからより依存しやすいのか。わかる。ジョバンニてカムパネルラといる時本当に幸せそうですごいはしゃいでるの。
ずっと疎遠で、周りとの関係性から二人で話せなかったけど二人きりになってやっと話せるようになった時のあの喜びようめちゃくちゃ心にくる。あんなにはしゃいでさ…ほんとピュア。ずっと一緒だねとかさピュアすぎて心が辛い。尊い。あの子供の頃のこういうセリフって大人だとなかなか言えないし言えたとしても心のどこかで冷めてる自分がいるし、本心のまま言えるのって子供の間だけなんだよね。
鷺取りのおっさんが消えた時、
「僕あの人ともっと話をしたかった、邪魔だと思っていたけれどだから話をしたかった。」
ってセリフとか人間不信に陥っていて、嫉妬っぽいよな。
あと女の子とカムパネルラが仲良く話していた時、ジョバンニは疎外感に陥って、何度も何度も気づいて欲しくてカムパネルラの方を不安で見ちゃうとかさ、見ててあるあるすぎてこっちがハラハラする。コミュ障あるある。それで何かあるごとに
「一緒に旅しようね」
乗客がいなくなったら
「僕たちまた二人きりになったね。どこまでもどこまでも一緒に行こう」
縋り付くように「お願いだから」かなりカムパネルラに依存している。というか原作読んだら女の子とカムパネルラが楽しそうに話してるところがっつり嫉妬したし私のフィルターは正常だった。涙を浮かべてたし、
(カムパネルラなんかあんまりひどい、僕と一緒に汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕は本当に辛い。)
と心のセリフがあった(乙女…)。
だけどカムパネルラはジョバンニへの同情で一緒に銀河鉄道に乗ったわけじゃないと思いたい。それだったらジョバンニがあんまりにも哀れだ。ジョバンニと一緒に居たかったから、こうして降りるのを先延ばしにしながら旅を二人で楽しんでいたんじゃなかろうか。
銀河鉄道の夜はジョバンニがカムパネルラ離れする話だったのかな。ジョバンニはカムパネルラが死んだことでクラスメートと話題ができて普通に話せるようになってた。カムパネルラが死ぬことでジョバンニが幸福に生きられるようになったのだ。
(余談だけど純文学ってすごいやおいって感じしやすい。やおいじゃん?思春期特有の恋愛感情と友情のごった煮じゃん?ジョバンニが所有愛とか独占欲に近い愛で、カムパネルラが博愛に近い愛だよな。恐るべし宮沢賢治…。)
「ぼくはもう、遠くへいってしまいたい。
みんなからはなれてどこまでも
いってしまいたい。
もしカンパネルラが、ぼくといっしょに来てくれたなら、
そして二人で、野原やさまざま家をスケッチしながら、
どこまでも、どこまでもいくのなら、
どんなにいいだろう。
カンパネルラは決してぼくを怒っていないのだ。
そしてぼくは、どんなに友だちがほしいだろう。
ぼくはもう、カンパネルラが、ほんとうに
ぼくの友だちになって、決してうそをつかないなら
ぼくは命でもやっていい。
けれどもそう言おうと思っても、
いまはぼくは、
カンパネルラに言えなくなってしまった。
一緒に遊ぶひまだってないんだ。
ぼくはもう、空の遠くの遠くの方へ、
たった一人で飛んで行ってしまいたい。」
銀河鉄道の夜は4回ぐらい書き直したもので、これは3回目に書いたけど清書でごっそり落としたものである。これって…これが友情なのか?そして「カムパネルラがうそをつかないのなら」って気になる。他の人に目移りするな、友達は僕だけと言っておくれ、そんな独占欲に見える。
子供の頃に誰もが経験する「ずっとこの子と一緒に遊ぶんだ」という友情の高ぶりをいつまでも抱えている。すれてなくて関係の間合いが詰められない、それだけに愛情が相手にだけ注がれて執着とか嫉妬とか毒々しいものに腐っていくのだろう。
でもカムパネルラに言えなくなったというのは、ジョバンニが自分の感情の重さを自覚してるってことだよね。切ない…。それで4回目でこのジョバンニの逡巡さえごっそりと削ってしまう。正直ここの激重描写欲しかったな…。ここの削った描写からジョバンニのカムパネルラへの感情をどういう方向性に考えていたのかがより明確に分かってないよかった。3回目でこれなら2回目、最初の時点での「銀河鉄道の夜」はどうだったのだろうととても気になった。